私が住んだ東京の街は、じつはインテリ左翼のメッカの町でしたw
この頃、私は中二になり、クラス替えで新しい友人とも付き合うようになっていました。
街の工作所経営者のお嬢さんでした。
彼女とは映画や音楽の好みがぴったりで、
よく毎週外国の音楽番組を見ては、毎日のように語り合っていました。
その時はクラシックも良く聞いていましたが、アメリカンポップスやブリティッシュロックに夢中になりました。
英語の魅力にも嵌り、成績はトップクラスに。
彼女も明るく天真爛漫で成績は中の上、ピリッとスパイスの効いた話術と鷹揚な人格が魅力的な子でした。
そこにいるだけで周囲が明るくなるような彼女に雰囲気に、癒されたのでしょう。
中学のころの楽しい(サン・スーシィな)思い出は主に彼女に負っていたような気がします。
一年からの友人の世紀末子とも相変わらず付き合っていました。
クラブ活動では絵が得意な私は美術部にいました。
別に就職に役立てようとか、コンクールに出そうとか、全く思わずにただ趣味でひたすら描いていました。
デッサン力はなかなかのものだと思います。
あるとき石膏像の絵を書かせて、優れたものをコンクールに出そうと言う話が来ました。
参観日があったのですが、そのときに美術教師はある生徒の絵をやたらとほめるのです。
確かに大人っぽく個性的なタッチで描かれたデッサン画は中学生とは思えないほど堂々としたものでした。
しかし本物そっくりに描かれているのは繊細なタッチの私の絵です。
そして教師の後ろにはその子の母親が佇んでいました。
(重い表情で俯いてなんか暗い雰囲気だな)と思ったのを覚えています。
結局その子は美術教師に便宜を図ってもらったのか、コンクールに出品しました。
当時は関心がなかったので、結果は分かりませんでした。
私に目をかけてくれた国語教師が作文をコンクールに出してくれていたから別にいいやと思っていたのかも。
それだけなら良かったのですが。
高校の進路相談のとき、担任は私より成績の悪い世紀末子を偏差値のいいY群の高校に送り、私をそれより低いランクのG郡の高校に送ることに決めました。
今思えばこの教師も在日ネーム。
Y郡は明るく雰囲気のいい、私服OKの高校が多くありました。
高校に進学した世紀末子は毎日楽しそうで、表情がリラックスしていました。
私は浮かない顔でした。
この高校でも、日教組の教師が威張っていました。
生徒はバカですが暴力行為は行いませんでした。
しかし明るさも愛もない。
(こんなことなら、私立の高校に行けばよかったな)
私は陰々滅滅な高校生活を送りました。
そしてこの頃近づいてきたのが、民青同盟。
マイク本田そっくりなシナ顔をした五十嵐君が私を誘いに来て更なるエアポケットに・・・
0 件のコメント:
コメントを投稿